西区古代史(1) 天地開闢は博多湾エリアのできごと

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2月9日(火)- 2016年
姪浜歴史物語

(※編集室より)「福岡市西区にはかつて邪馬台国があり、糸島には伊都国があった」と福岡市西区~糸島半島を中心にフィールドワークを続ける川岡さん。前回に続き、今回も無数の傍証からがその説を立証していきます。


 
 皆さま、おはようございます。

 倭国や日本国の歴史は、古事記や日本書紀に書かれていると思いがちですが、どちらとも、時の朝廷の意向を受けて書かれたもので、言わば勝者の歴史です。勝者が自分の都合の良い様に歴史を書いたにすぎません。
 私は中国や朝鮮国で書かれた歴史書の方が真実を伝えているのではないかと思い、中国の歴史書を古い順に読んでみました。

 後漢書、三国史「魏書」第30巻(通称「魏志倭人伝」)、晋書、梁書、北史、南斉書、宋書と宋史、南史、隋書、唐会要、旧唐書。新唐書。これらの書物でまず注目したのは見出しです。
 後漢書や三国史魏書、晋書では「倭人伝」。梁書、北史、南斉書、宋書、南史、隋書では「倭国伝」。唐会要、旧唐書は「倭国・日本国伝」。新唐書からは「日本国伝」となっていて、唐会要と宋史には倭国と日本国の二つの国が在った様に書かれているのです、内容も「日本と倭国は別種である、日本国は日の出の場所に在るをもって、故に日本と名付けた、或いは、倭国は自らその名の、幼稚ならざるを憎み、改めて日本となした、或いは日本は昔小国だったが倭国の地を併(あわ)せた」と書かれています。

 おそらく日本国の国号は西暦645年の中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺した「乙巳の変」いわゆる「大化の改新」時に「日本国」としたのではと思います。従いまして、天智天皇が日本国の初代国王になり、日本国の成立は倭国よりもずっと遅いのです。

 それではこの倭国はどこに在ったのでしょう、それは「旧唐書」の一文に、「倭国とは、古の倭奴国である」とあります。この倭奴国の金印が福岡市東区の志賀島で発見されたために倭奴国は博多湾周辺に存在したと思われています。また、この読み方も「いどこく」「わどこく」「わぬこく」「いぬこく」といろいろな説があるようです。

 5年程前に、元福岡市の教育委員長からのお誘いで、この金印の貸証文があると主張してある、元小学校の校長先生の講演を聞きに行きました、その方が言われるには、金印の貸証文が西区青木の某神社に残されているというのです。金印は志賀島から発見されて、おそらく志賀海神社境内に保管されていただろうと思っていましたのでたいへん驚きました。
 2年ほど前、その元校長先生お会いした時に「金印の貸証文があるという事を公表しても良いですか」とお尋ねしたところ、「福岡市はもう、志賀島に金印公園を造っていますから」とのお答えでした。

 古代の名前や地名は、当て字が使われる事が多いのです。当て字とは漢字の意味とは無関係に、その語(はなし)と同音や音訓の漢字を借りて当てた字で、例えば「伊邪那岐尊」の名前ですが、古事記や祓詞の祝詞では、伊は伊都国の伊、邪は邪馬台国の邪、那は那国の那の字ですが、日本書記では伊は伊都国の伊で一緒ですが、奘(ざ)は「さかん」の字で、諾(なぎ)は「諾」(だく)という字で意味が全く理解できません。古事記と日本書紀の編纂された時期を考えると、およそ8年の間にこの名前の文字が書き換えられていると考えられます。
 「伊」は伊都国、「邪」は邪馬台国、「那」は那国と考えると、博多湾周辺に邪馬台国であるので、即ち、位置が解るから、名前を解らなくしたとも考えられます。

 では何故、邪馬台国が福岡市の博多周辺に存在するとまずいと考えたのか?

 それは、天皇家の歴史は万世一系で、大阪、京都、奈良あたりに都が存在した事にしなければならないと考えたからでしょう。博多付近では朝鮮半島と近く天皇家は朝鮮半島から来たのではないかと疑われるからだと思われます。

 それでは伊邪那岐尊の事績を考えてみます。
 
姪の浜歴史探訪観光案内図

姪浜エリア7ヶ所にある「姪の浜歴史探訪観光案内図」
 

 皆様は姪浜一帯の7ヶ所に設置しています「姪浜歴史探訪観光案内図」をご存じですか。これは昭和57年に元姪浜中学校校長の西島弘さんが、地元経営者の地域づくり団体「姪友会」の要請を受けて制作された案内板ですが、何年も渡り風雨にさらされて、文字が見えなくなっていたので、平成19年に私が多少内容を変えて再制作したものです。
 この案内板の概要説明で、ここ姪浜は神代紀にイザナギ尊が黄泉の国から逃げ帰り、筑紫の日向の橘の小戸の檍原で禊祓をされ、住吉三神、志賀三神、警固三神の神や、皇祖天照大御神、月読尊、スナノウ尊が誕生された場所と書いています。

 これは、古事記や日本書紀の初めに書かれている、天地開闢と神々や、国生み、黄泉の国の話の原点が、ここ博多湾、それに福岡市西区の姪浜や小戸、更に糸島市まで続く物語なのです。

 
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 中国の歴史書、新唐書日本伝や宗史日本国伝には、倭国や日本国の前身は倭奴国であり最初の王様の名前は天御中主神、新唐書日本伝では凡そ三十二世、宋史日本国伝では凡そ二十三世は、筑紫の日向宮に居ると書かれています。
 それは「磐余彦」こと神武天皇までが、ここ筑紫の日向に居たという事です。
 朝鮮国の民族史である「桓壇古記」にも伊都国は神武天皇が居た古村とも書かれています。
 
新唐書日本伝と宗史日本国伝との比較

新唐書日本伝と宗史日本国伝との比較

 
 宋史日本国伝には凡そ六十四世の王の名前が掲載されています。
 この中では第1世は天御中主で、17世が伊邪那岐尊、18世はスサノウ尊、19世は天照大神、20世は天忍穂耳尊で21世が瓊瓊杵尊、22世は彦火火出見尊、23世はウガヤフキアエズ尊で24世が神武天皇です。
 私はこの中の天照大御神こそが邪馬台国の女王卑弥呼だと思いますが、その事は後ほど触れたいと思います。
 
第2回につづく)
 
 
※(編集部より)上記の内容は川岡氏ご本人の許可を得て、平成271218日に西福岡警察署で開催された講演「福岡市西区の歴史」をWeb用に再編集したものです。
 


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