西区古代史(2) 博多湾を逆さにしてみると……!?

PV(824)
2月17日(水)- 2016年
姪浜歴史物語

第1回よりつづく)


 それでは筑紫の日向が何故福岡市西区から糸島市にかけての場所なのかを説明します。
 筑紫とは春日市や筑紫野市、太宰府市付近の事で、日向は日に向かうの意味で西の方です、ここ福岡市西区の南には日向峠(ひなたとうげ)や日向川などがある事です。
 また、最近発見した、大震國本紀には「日本」には旧「伊国」と云う国が在り、又の名を「伊勢」と言い、「倭」の隣にあったとあります。「伊都国は筑紫にあり、即ち日向国也」。この一文は「筑紫の日向」は伊都国、今の糸島市付近にあったということを意味します。宮崎県や鹿児島県ではないのです。
 更に、

大日本名所図録 姪浜住吉神社境内の図
大日本名所図録 姪浜住吉神社境内の図(後ほど挿入)

 「大日本名所図録」の姪浜住吉神社境内の図には「姪浜産土神住吉宮は筑紫の日向の橘の小戸の檍原の旧跡」と書かれています(※編集室注:ブログ第1回「姪浜こそは”国産み”の中心地」に拡大図があります。そちらもご覧ください)。
この事から「筑紫の日向」は糸島市から福岡市西区の範囲に在ったと推測されます。
 
 ちなみに、伊邪那杵尊を祀る神社は鷲尾愛宕神社、伊邪那美尊を祀る神社は飯盛神社、スサノウ尊を祀る神社は、昔の牛頭社で現在の小戸大神宮の場所で今は天照大御神を祀る神社で、天忍穂耳尊も鷲尾愛宕神社です。

 この後のニニギ尊からは糸島市に移り、雷山の雷神宮、火折尊(ほおりのみこと)こと「彦火火出見尊」は高祖神社、ウガヤフキアエズ尊は産宮神社で、初代天皇の神武天皇は、糸島富士とも可也山ともいわれる山頂の可也神社に祀られ、その各皇后も皆ここ福岡市西区から糸島市にかけて祀られています。
 
神々及び皇室の御先祖を祀る神社神宮
神々及び皇室の御先祖を祀る神社神宮

 そこで日本書紀の記述ですが、日本国前身は倭国といいます。この倭国を造った神がイザナギ尊と妻のイザナミ尊ですが、この夫婦神が天の浮橋で相談して、玉で飾った矛で国を探します。その矛の先から滴り落ちた海水が固まって一つの島になります。これが「おのころ島」です。この島に降りられて御殿を造り、又、天に届く柱を建てられ、国生みや神生みをされます。
 神生みの最後に生まれた神が、火の神「カグツチ」で、この神の為に火傷をされて、イザナミ尊が亡くなり黄泉の国に行きます。イザナギ尊は黄泉の国に行ったイザナミ尊を連れ戻しにいきますが、イザナミ尊はもう黄泉の国の食べ物を食べてしまっていてもう戻れないと言われてしまいます。イザナギ尊はイザナミ尊から私の寝姿をみないで下さいとお願いされたのですが、約束を破ってこっそり寝姿を見てしまったところ、膿が流れ、蛆が湧いていた死体だったのです。
 イザナギ尊は大変驚いて逃げ帰ろうとしましたが、イザナミ尊から「どうして見てはいけないと言っていたのに、見てしまわれたのですか」と責められ、冥界の鬼女八人と本人から追いかけられます。黄泉の国との境の平坂で千引きの磐で坂道を塞ぎ、その場所で縁切り宣言をしました。
 日本書紀一書(第九)には八種類の雷から追いかけられたとも書かれていて「雷」は「雷山」とも考えられます。
 イザナミ尊が「私はあなたの治める国の民を一日千人づつ絞め殺します」と言われたので、イザナギ尊が「そのように言うのなら、私は一日千五百人づつ生ませよう」とその呪い言を言われました。
 そして、「これより先は入ってはならぬ」と持っていた杖を投げられた、その場所が「塞えの神」(さえのかみ)というのです。
 そこから自分の着ているものや履いている物を投げられたのがいろんな神に成ります。
 そして着いた所が「筑紫の日向の橘の小戸の檍原」なのです。

 この記述は、天の浮橋が「海の中道」、おのころ島が「能古島」、黄泉の国とは糸島市三雲付近にある弥生遺跡、即ちお墓で、塞えの神とは周船寺にある「塞神社」(さいじんじゃ)、そこの先から舟に乗り小戸大神宮の前の海に着き、此処で禊祓をされて警固、住吉、志賀の各三神が誕生された後、左目を洗うと天照大御神右目を洗うと月読尊、鼻を洗うとスサノウ尊が誕生されたのです。

 能古島の「思索の森」には「いざなぎ石」と「いざなみ石」の石積みが有り、天に向かって聳えているモニュメントが存在します、これは昭和50年代に福岡市が建設したと言われています。私と同じ考えの方が福岡市に居たと思われますが、今は誰も語ってはおられない様です。
 「橘の小戸の檍原」の意味ですが、「橘」は「立つ鼻」で「立」は台地の事で「鼻」とは「岬」の事です。福岡市の地図を見ていただくと「牧の鼻」や「磯崎鼻」等鼻の付く岬が沢山あります。小戸と言うのは「水」や「川の落ち口」で、「檍原」(あわぎはら)は古語で真水と潮水が合流する所を「あわき」といい、原とは海原を指します。

 ちなみに「禊祓」ですが、魏志倭人伝には、家族が亡くなって葬儀をした後、海で泳ぐと書かれています。これはつい最近まで葬儀の後、「清め塩」を体にかける風習がありましたが、それが禊祓の事と思います。
 さらに小戸は昭和の始めまで「塩の産地」で火葬場までありました。
 
 昭和六年に発行された「小戸大神宮略記」には「小戸は神代の昔、伊邪那岐大神禊祓の神業(かむわざ)を行い給い、皇祖天照皇大神、志賀三神、住吉三神のご降誕あらせられる最も由緒深き靈地なり。御祓瀬として、御膳立に連なる左の海浜にして、社の直前に当たり、伊邪那岐大神禊祓の神業を行い給いし所にして有名なる、片男波なり、片男波は寄せ波のみにして引く波なく、伝説にイザナミ尊を慕い黄泉の国に入り、一人還りまし、古事に出たり」とあります。
 
小戸大神宮略記小戸大神宮略記
 
 福岡市西区小戸の小戸大神宮前の福岡市立小戸ヨットハーバー付近が、この情景とぴったり一致します。

福岡市、糸島市の概観図
福岡市、糸島市の概観図
 
 また、このイザナギ尊の子供を祀る神社が姪浜近郊にはたくさん存在します。スサノウ尊と「太陽神の天照大神」は小戸大神宮、海の神の住吉の神は姪浜住吉神社、山の神は鷲尾愛宕山に大山祇神社、土の神埴安姫は探題塚の埴安神社、水の神の「たかおかみ」は上野間の貴船神社、宇加乃御霊は周船司の宇賀神社等で何と6社も存在するのです。

 ではイザナギ尊が左目を洗ったり、右目を洗ったり、鼻を洗ったりしたとの記述があるのでしょうか? 私はこの伊邪那岐尊の名前の字体から、これは、博多湾周辺の出来事と思い、次の図の様に考えてみました。

博多湾周辺の概観図 人の顔
南を上にし、人の顔に見立てた博多湾周辺の概観図
 
 博多湾は昔から歯の形をしていると言われていましたが、歯があれば口や目鼻があるはずです。この伊邪那岐尊の名前から、右目は「伊都国」、鼻は「邪」で「邪馬台国」、左目は「那」で「那国」、「岐」(ぎ)とは区域を指し、「尊」を王様とすると、なんと博多湾周辺の地図がぴったり一致するではありませんか。

 伊都国は今の糸島市の南半分、邪馬台国の場所は昔から早良王国といわれ、大半が壱岐とも言われています。邪馬台国は魏志倭人伝には邪馬壹国と書かれており、数字の壹と言う漢字も壱岐の壹とも一致します。
 那国は、昔から「那の津」や「那珂川」の地名が残っている事から、福岡市の博多区や中央区、那珂川町付近を指すのではないかと思っています。
 ここで少し邪馬台国の話をしますが、私は、この邪馬台国の邪馬(やま)とは当て字で、邪(じゃ)とは「蛇」の事、馬は「島」の事ではないかと思っています。具体例は長崎県の対馬。対馬は「上県」と「下県」の二つが「一対」になっている「島」で「対馬」というわけです。
 そこから考えると、「邪馬台国」の「邪馬」は「蛇の島」と解釈できます。
邪馬台国の台(たい)は魏志倭人伝では漢字で数字の「壹」(いち)という字ですが、後漢書では「臺」(だい)で、上から書くと「きちに、うかんむりを書き、いたる」と言う一字です。
 数字の壹は、福岡市西区の「壱岐」校区の事で、私が邪馬台国は早良王国と言っているのと一致します。また、「臺」とは中国語で「皇帝が住む所」を表し、日本では「天守閣」を指しますので、少し高い所ではないのでしょうか。福岡市西区小戸の小戸公園付近の「中隈山」の小戸大神宮は天照大御神を祀る神社ですが、その付近の地名は「イキノ天神」で壹岐、東の裾野は「寶臺」という地名で寶は宝(たから)で、臺(だい)は日本語で天守閣の事だと思います。さらに、そこには「蛇山」が在り、「蛇神社」も在るのです。
第3回につづく)
 
 
 
※(編集部より)上記の内容は川岡氏ご本人の許可を得て、平成271218日に西福岡警察署で開催された講演「福岡市西区の歴史」をWeb用に再編集したものです。
 
 


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