西区古代史(3)イザナギが小戸大神宮で禊をし、ニニギノミコトは雷山から三雲に降りてきた。

PV(1865)
3月1日(火)- 2016年
姪浜歴史物語

第1回から読む)
第2回から読む)

 中国の歴史書「梁書」や「南史」によれば邪馬台国には「牛のような獣が有る、名は山鼠、又、この獣を呑み込むという大蛇がいる、その蛇皮は堅くて叩ききれないが、頭上に孔(あな)があり、開いたり閉じたりして、時には光を発するのだが、この中を射れば、蛇は死ぬ。」と書かれています、さらに、魏志倭人伝には邪馬台国では葬儀が終われば、家人は皆が水中で水浴びをすると書かれて、小戸大神宮の前の海で伊邪那岐尊が禊をされて、いろんな神々や皇祖天照大御神が誕生された場所だとすると、邪馬台国の記述と一致するのです。


筑前国図筑前国図

 小戸大神宮は江戸時代には「イキノ天神」と言われていました。この筑前国図にも記述があります。この地図に掲載されている神社は西から「イキノ天神」、「志賀社」、「ハコサキ社一宮」、「香椎社」、「太宰府天神社」、「宗像社」等6神社です。何故「イキノ天神」こと「小戸大神宮」が他の神社と比べて、皆様方に知られていないのでしょうか。疑問です。
 
国宝「翰苑」
太宰府天満宮に残る国宝「翰苑」から抜粋したもの

 太宰府天満宮所蔵の国宝「翰苑」にも「邪届伊都、傍連斯馬」と書かれていて邪馬台国は糸島市の伊都に届き、又、糸島郡志摩町の傍らに連なると読めるのですが、皆さまはこの事を聞かれていかが思われますか。


 
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 平安時代初期の八百十五年に嵯峨天皇の命により編纂された、古代氏族名鑑に皇祖の兄弟の行き先及び居住地が書かれた本があります。天照大御神の子供が天忍穂耳尊であり鷲尾愛宕神社の祭神ですが、天忍穂耳尊の皇后が拷幡千々姫、小戸大神宮の祭神です。このお二人から生まれたのが、天孫降臨「ニニギ尊」で糸島市雷山の「雷神宮」の祭神です。
 

新選姓氏録
新選姓氏録



 この記述も日本書記には、「高皇産霊尊は真床追衾(まとこおうふすま・玉座を覆うふすま)でニニギ尊を包んで降ろされた。皇孫は天の磐座(いわくら)を離れ、天の八重雲を押しひらき、勢いよく道を踏み分けて進み、日向の襲(そ)の高千穂の峯にお降りになった。皇孫のお進みになる様子は、?日の二上の天の梯子から、浮嶋の平な所にお立ちになって、痩せた不毛の地を丘続きに歩かれ、良い国を求めて、吾田国の長屋の笠沙崎にお着きになった。そこに人がいて自ら「事勝国勝長狭」(ことかつくにながさ)と名乗った。」とあります。
 この記述ですが、天の磐座とは鷲尾愛宕山の付近だと推測して、天の八重雲とは、今宿青木の所謂「八雲神社」、?日の二上の天の梯子(とは、高祖山の南の小高い山が「くしふる岳」と言うそうですが)を通り、雷山の雷神宮まで行く記述と一致するのです。

 更にこの続きですが、皇孫が問われ、「国があるのかどうか」と言われると、「国が在ります、お気に召しましたらどうぞゆっくり」と答えがあり、皇孫はそこに止まられました。その国に美人がおり、名を木花開耶姫といます。この方は「大山祇神」の娘ですが、その姉には醜いと言われていた「磐長姫」がいます。皇孫は木花開耶姫を妻にしたいと言われます。天孫ニニギ尊が雷山から降りて来た所の糸島市三雲には「細石神社」があり、その祭神が木花開耶姫と磐長姫を祭る神社です。

 海幸彦、山幸彦の物語をご存じでしょうか。二二ギ尊と木花開耶姫の長男が火酢芹命(ほのすせりのみこと)こと海幸彦、末弟は火折彦火火出見尊(ほおり、ひこほほでみのみこと)こと山幸彦です。この火折、彦火火出見尊を祭る神社が高祖山の高祖神社なのです。
 海幸彦は海の幸を得る力を備え、山幸彦は山の幸を得る力を備えていましたが、ある日、二人の幸を得る道具である、弓矢と釣り針を取り換えてみたところ、弟の山幸彦が釣り針を無くしてしまいます。困った弟は別の針を持って来たり、自分の太刀で針を作ったりしましたが、兄は承服しません。元の針を返してくれと言うので、山幸彦は針を探しに海辺へ行き、そこで塩土老翁(しおつつのおじ)に会ったとの記述になっています。その塩土老翁を祭る神社が、芥屋の大門に在るのです。
そこで、この塩土老翁から助言を受けて針を探しに海神の宮に行くのですが、そのお宮こそ、志賀島付近の志賀海神社なのです。ただ、今の志賀海神社ではなく、和白辺りの綿積神社と思われ、そこは安曇族の領地です。そこで、失くした針を見つけ、海神の娘の「豊玉姫」をお嫁さんにして三年程経過た後に元居た伊都国の高祖山に帰り、この針を返したのです。

 その後、この兄は何度も弟を殺そうとしましたが実現せず、何処に行ったのかなあと思っていたら、鹿児島県薩摩付近の隼人族になっていたのです。所謂薩摩隼人です、これは新選姓氏録に掲載されています。それが宮崎や鹿児島地方を天孫降臨地とする説の所以(ゆえん)ではないかと思っています。
 また、この豊玉姫を祭る神社も「志登神社」と言い、糸島市志登にあります。昨年社殿が火事で全焼しましたが、最近再建されたと聞いています。
 志登神社の名前も「志賀に登る」と書き、志賀海神社まで行ったのではと思います。この二人の子供が、ウガヤフキアエズ尊で、豊玉姫の妹の玉依姫を、お嫁さんにして、近くの産宮神社の南で雷山の麓の蔵持いう所にある、寶満宮の祭神です。さらに、この二人の子供が、磐余彦と呼ばれている、初代天皇の神武天皇で、糸島富士こと可也山の山頂に「可也神社」として祭られています。

 この後の綏靖天皇からが何処に祭られているのか解りませんが、ここからの天皇が欠史八代と言い、詳しく解らないのですが、最近「倭人興亡史」の本を読んでいると、朝鮮半島に行ったのではと書かれています。
 朝鮮半島の南の狗邪韓国(くやかんこく)、即ち「任那」(みまな)は北倭と呼ばれた倭国の領土だったとの記述が有り、真偽を確かめたいのです。
 
(第4回につづく)
 
 
 
※(編集部より)上記の内容は川岡氏ご本人の許可を得て、平成271218日に西福岡警察署で開催された講演「福岡市西区の歴史」をWeb用に再編集したものです。


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